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なんで古文を勉強しなくてはならないんですか?

古文を教えていると、ほとんどの生徒からこの質問をされます。

多分、ツイッターを検索すれば、たくさんの古文の先生たちが答えてくれているのではないかと思います。

でも、「なんで古文を勉強しなくてはならないんですか?」という質問に一度つかまれてしまったら、国語の先生たちに何を言われても納得できる答えは見つからないと思ってください。

そういう質問を先生たちにするなって言っているんじゃないですよ。

どうしても聞きたい先生がいればどんどん聞いてください。

でも、「そっかぁ」と納得することはないです。

というのは、「なんで古文を…?」っていう疑問をもつのは、古文は目に見える形では役立たないと思っているからです。

そして、それはおそらく正しい思いです。

数学や理科や英語は、いかにも役に立ちそうですね。

ぶっちゃけて言えば、大人になってから行う経済活動や、科学技術の発展につながっていそうですね。

それに対して、歴史や文学という領域は、やってもやらなくても同じように思えますね。

好きな人だけがやればいいように見えますね。

そういう疑問をもつ皆さんに、歴史や文学を高校生が学ばなくてはならない意義を説明するというのは、問題が大きいので、ちょっと控えたいと思います。

控えたいと思うのですが、それでも言いたいと思うのは、数学も理科も英語も、一見役に立つようだけれど、それが役に立つのは、役に立つかどうか分からない中で大学等の研究者たちが研究をしてくれているおかげで発展してきたんだよ、ということです。

そういう研究の集積の、基礎的な部分だけを抽出しているのが、高校の教科書なわけです。

実際は、すぐに役に立つかどうかわからない中で、それでも「この疑問を解明したい」という熱に憑かれた人たちによって学問は発展しているわけですね。

歴史も文学も、数学や理科と同じように、ある疑問に捕まれて解きたいと思った人間の衝動によって発展してきたわけですね。

人類の遺産の一部なわけです。

そう考えると、この地球に生まれ落ちた以上、そういう遺産を子供たちにも共有してもらいたいと大人が思っても、不思議じゃないですね。

人間というのは、役に立つことだけを目標にして生きる動物ではないということ、このことを古典や歴史の勉強は教えてくれます。

こんなことを言わなくても、いわゆる難関大学に行きたければ古典や歴史の勉強は現実的には避けられないですね。

でも、役に立つ、という目的がなくても人は学ぶのだ、ということを少しでも実感してくれたらと思います。

私たちが当たり前のように清少納言の言葉を理解できるのも、先人たちの研究の積み重ねがあるからですね。

多くの研究者の苦闘の末に、そういう研究者たちの肩の上に乗って、私たちは有名な古典の文章を読むことができています。

そういうことも考えながら古文に取り組むと、ひょっとしたら古文への印象が少し変わるかもしれませんね。

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